アダルトチルドレン問題解決 一般的自覚と障害的自覚



さて、前回 自覚と認知という内容で好きなものを確定しなければならない

という事を書きましたが。

内容的には

自覚しなければならない 

認知しなければならないという事が、もし出来るなら好きなものの確定という事なるのですが


なにゆえ この様な言をわざわざやる必要があるのか?

私たちが、常に考える一般という認識はどのようなルーツをもって作られてきたのか?

そこから考える必要があると思います。

例えば、生まれつき足のない人は、自分の好きな場所に行くにも

沢山の人の手を借りたり準備をしなければなりません

困難に対する自覚があります。

障害的自覚があると判断してもよいかと思いますし

見ている他の一般の方々も、その困難を認知することが出来ます。

しかし、そこには一般と障害という大きな隔たりがあることも事実です

隔たりがあるという現実は双方が認知されているという共通点ではありますが

困難への違和感というものは、それぞれの立場によることも皆さん理解できるでしょう。

この立場の違いという事を 心の問題を抱える人として考えてみると

障害的 自覚や認知という事が、本人にもほかの人にも非常にわかりにくい事が

お解り頂けるかと思います。

なぜ、心の問題を抱える人が、自覚や認知が出来ないのかという事を考えてみると

身体の障害のように、手や足が無くなった喪失感を得ないまま

心の一部を失ってきたからだと考えています。

しかも、自損したわけではなく 他者から受けた喪失感だからだろうと思います。

日々、心の一部を失っていけば、やがてそれは大きな心の障害としての認知が必要になりますが

現在の一般の考え方には 結果論としての心の障害の認知しかできません。

これが、一般的と障害的の大きな隔たりを作っているのだと考えています。

心の問題を抱える人たちは 自分の持つ障害的自覚や認知を

一般的自覚や認知で 取り繕う学習能力を 他者から受けた喪失感の代わりに

得てきたのだとすれば理解できるかもしれません。

どちらにしても、このあいまいな双方の事柄に線引きをかけなければ

障害的自覚や認知は、心に問題を抱える人たちにとってはいつまでも付きまとう

重しと成ることは間違いないかと思います。

そして、この事に線引きをかけたいなら

まず、好きなものを確定してみるという事から始めなければならないと考えています。


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きんたろう監修⬆︎








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