アダルトチルドレン問題解決 心の障害と自覚と認知

心の障害と自覚と認知

皆さんの 心の障害自覚に至るまで
いったいいつごろから始まりどの様な症状として表れてきたのか?
まず、ここからたどらなければなりませんが、、、

セッションで初めに出てくるものは とても曖昧な話ばかりです
なんとなく辛い 突然怒りがわいてくる 酷い空虚感に襲われる
出産を期に 生きづらさに気づいたなど持ち続けてきたものがあふれ出すかのようです


不登校や子供の暴言暴力などで相談される親御さんに至っては
生きづらさの感覚さえない方も多くみられます。

これらの事のすべての始まりは 喪失感による欠損がもたらした
長年に わたる 違和感の蓄積により起こっているものだと考えています。

※喪失感による欠損(一人の人格を持つものとして受けるべきを受けれず その反動による障害)
※違和感の蓄積(人との違いを感じながら表現できずに心の中に封印すること)



不登校などの お子さんの 心の問題のプロセスを考えていくと
喪失感による欠損からきていると考えると、親御さんの喪失感の欠損の連鎖と考えたほうが
問題解決のスピードはかなり速くなると思います


すでに生きづらさを酷く感じとっておられる方は 欠損の記憶をたどれる
指導者なりコミニティー(グループワーク)が必要かと思います

わからない。。心当たりがない。。どうしてこうなってしま ったのか。。
初めのうちは このような言葉をよく耳にします

しかし、沢山話をしていけば 喪失感による欠損というルーツに辿り着ける
そして、ルーツに至るプロセスも見てて来ると実感しています


例えば、うちでは現在好きなものを二つ三つあげてもらいます
その中で、チョコレートが好きだと言われた場合 どのメーカーのどのチョコが好きか?
と聞くのですが。。。メーカーすら答えれない方が多かったりします

そして いつもどのチョコを買い物かごに入れているのか?聞いても
意外とあいまいな答えしか返ってこないのです

メーカー種類が出たとしても どのような味だから好きだという返事は返ってはきません
話を変 え 昔からある愛着のある即席ラーメンは何ですか?
と聞いてみると 非常に曖昧だったり 食べたことがないという答えが返ってきたりします
ちなみに、カップヌードルカレー味を食べたことがない人が4~5名いました(^_^;)


他にも好きなものの事例はたくさんありますが、、書けばキリがありません

これらの事は、何を指すのかという事を考えてみると
心の障害を持つ人たちの多くは 一般という感覚を持つ人たちと交わる場合
表層を合わせる学習能力を持ち合わせているものだと考えると分かりやすいかもしれません


一般の感覚を持つ人の物まねでコミニケーションをとり 
違和感を感じないようにしてきたのではないかと考えられるのです


つまりこのように答えれば上手くいく このように答えれば変な人見られないとか
コミニュケーション自体つじつまが合えばその場から逃れられる思考です

しかし 肝心の違和感は放置されたまま過ごし続けなければなりません
なにが好きなのか分からないまま人と交わることはとても負荷がかかることです

その反面 つじつまを合わせることに懸命で相手の好きなものまで入って来ません
この事が続けば大変苦しい心境になってくることは言うまでもないでしょう。。


この様な事を生まれたころから長年やっていけば 
無意識で無感覚を繰り返し出来るようになるのではないでしょうか?

この長年 無意識で行ってきた行為を 自覚 認知することが
生きづら さを克服する始まりだと思いますし 皆さんの目指す回復に繋がるのだと思います

わがこが不登校になった日

わが子が不登校になった日
きんたろう監修⬆︎



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アダルトチルドレン問題解決 一般的自覚と障害的自覚



さて、前回 自覚と認知という内容で好きなものを確定しなければならない

という事を書きましたが。

内容的には

自覚しなければならない 

認知しなければならないという事が、もし出来るなら好きなものの確定という事なるのですが


なにゆえ この様な言をわざわざやる必要があるのか?

私たちが、常に考える一般という認識はどのようなルーツをもって作られてきたのか?

そこから考える必要があると思います。

例えば、生まれつき足のない人は、自分の好きな場所に行くにも

沢山の人の手を借りたり準備をしなければなりません

困難に対する自覚があります。

障害的自覚があると判断してもよいかと思いますし

見ている他の一般の方々も、その困難を認知することが出来ます。

しかし、そこには一般と障害という大きな隔たりがあることも事実です

隔たりがあるという現実は双方が認知されているという共通点ではありますが

困難への違和感というものは、それぞれの立場によることも皆さん理解できるでしょう。

この立場の違いという事を 心の問題を抱える人として考えてみると

障害的 自覚や認知という事が、本人にもほかの人にも非常にわかりにくい事が

お解り頂けるかと思います。

なぜ、心の問題を抱える人が、自覚や認知が出来ないのかという事を考えてみると

身体の障害のように、手や足が無くなった喪失感を得ないまま

心の一部を失ってきたからだと考えています。

しかも、自損したわけではなく 他者から受けた喪失感だからだろうと思います。

日々、心の一部を失っていけば、やがてそれは大きな心の障害としての認知が必要になりますが

現在の一般の考え方には 結果論としての心の障害の認知しかできません。

これが、一般的と障害的の大きな隔たりを作っているのだと考えています。

心の問題を抱える人たちは 自分の持つ障害的自覚や認知を

一般的自覚や認知で 取り繕う学習能力を 他者から受けた喪失感の代わりに

得てきたのだとすれば理解できるかもしれません。

どちらにしても、このあいまいな双方の事柄に線引きをかけなければ

障害的自覚や認知は、心に問題を抱える人たちにとってはいつまでも付きまとう

重しと成ることは間違いないかと思います。

そして、この事に線引きをかけたいなら

まず、好きなものを確定してみるという事から始めなければならないと考えています。


わがこが不登校になった日

わが子が不登校になった日
きんたろう監修⬆︎








アダルトチルドレン 問題解決 一般的自覚と障害的自覚

さて、前回 自覚と認知という内容で好きなものを確定しなければならない

という事を書きましたが。

内容的には

自覚しなければならない 

認知しなければならないという事が、もし出来るなら好きなものの確定という事なるのですが


なにゆえ この様な言をわざわざやる必要があるのか?

私たちが、常に考える一般という認識はどのようなルーツをもって作られてきたのか?

そこから考える必要があると思います。

例えば、生まれつき足のない人は、自分の好きな場所に行くにも

沢山の人の手を借りたり準備をしなければなりません

困難に対する自覚があります。

障害的自覚があると判断してもよいかと思いますし

見ている他の一般の方々も、その困難を認知することが出来ます。

しかし、そこには一般と障害という大きな隔たりがあることも事実です

隔たりがあるという現実は双方が認知されているという共通点ではありますが

困難への違和感というものは、それぞれの立場によることも皆さん理解できるでしょう。

この立場の違いという事を 心の問題を抱える人として考えてみると

障害的 自覚や認知という事が、本人にもほかの人にも非常にわかりにくい事が

お解り頂けるかと思います。

なぜ、心の問題を抱える人が、自覚や認知が出来ないのかという事を考えてみると

身体の障害のように、手や足が無くなった喪失感を得ないまま

心の一部を失ってきたからだと考えています。

しかも、自損したわけではなく 他者から受けた喪失感だからだろうと思います。

日々、心の一部を失っていけば、やがてそれは大きな心の障害としての認知が必要になりますが

現在の一般の考え方には 結果論としての心の障害の認知しかできません。

これが、一般的と障害的の大きな隔たりを作っているのだと考えています。

心の問題を抱える人たちは 自分の持つ障害的自覚や認知を

一般的自覚や認知で 取り繕う学習能力を 他者から受けた喪失感の代わりに

得てきたのだとすれば理解できるかもしれません。

どちらにしても、このあいまいな双方の事柄に線引きをかけなければ

障害的自覚や認知は、心に問題を抱える人たちにとってはいつまでも付きまとう

重しと成ることは間違いないかと思います。

そして、この事に線引きをかけたいなら

まず、好きなものを確定してみるという事から始めなければならないと考えています。

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